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と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つているのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。
と、下の男は睨み上げた。
「ふむ」
自動車が動き出した時、練吉は唇のはしをびりびりさせ、あの切れ目の顔に何かしら水をかけられたやうな表情になりながら、
河原町の対岸に俗称河場と云ふ地名の部落があつた。そこは現在では河原町の区域に入つているが、昔は他領であつた。純粋な農家、主として自作農ばかりの集りで、対岸の町から眺めると、藁葺の低い屋根が樹木の間に背をこゞめているやうに見えて、そこに住んでいる人達は、河原町の人々が、田舎に似ず一種洗練された身なりや顔つきなのにくらべると、明らかに泥臭い、鈍重な身ぶりであつた。その農家の中で一軒だけ瓦葺きの、構へも他の家より稍大きな家があつて、これが此の物語の主人公である房一の生家、高間家であつた。
「まづい、まづい。酒がまづくなる」
「わたしやア――」
徳次は新聞なんかはとつていなかつた。ところが、町のずつと上手にある町役場では、すぐ近くのバスの発着所からいの一番に配達されるし、又県庁からの示達があるので、いろんな特種とくだねが入つた。今泉は早耳好きだつた。それに堀内将軍は聯隊長時代に今泉の上長だつた。その年の夏青島攻略がはじまつて、新聞に堀内将軍の記事が出て以来、今泉は何度河原町でこの「信水閣下」のことを話したものだらう。彼は夢中になつていた。その情熱のおかげで、今泉は町中の人が彼と同じ位に「信水閣下」を知つているやうにさへ思ひこんでいたのである。だから、新聞で凱旋の記事を見たとき、今泉はもうどんなにしてもそのことを知るかぎりの人に、誰でもいゝ、報しらせたくてたまらなかつたのだ。
患者の多くは近在の農夫達であつた。それは大体に於いて、開業以前に予想していた通りだつた。鈍のろい、ゆつくりした口調で声をかけながら、彼等はおづおづと高間医院の玄関を入つて来る。彼等は医者に診てもらふためにわざわざ河原町へ出て来るのではなかつた。農具とか種物とかを買ひに出て、ついでに立寄るのであつた。それで、彼等の病気はすでに治療の時期を失しているか、でなければ手のつけられない慢性のものが多かつた。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。
膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべていた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つているのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗どんぐりのやうに何かむくむくした男を見た。
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」